ちょこらく喫茶店

ああ、身も蓋もない

勉強は必要か

ちょこらく喫茶店の中屋裕喜です。

 

6月30日から宅建士の勉強を始めて今日で8日目です。

やっと最後まで過去問を終えることができました。

 

法律特有の言い回しや用語の使い方に手こずりました。

読むのにも時間がかかりますが、読めたとて意味が分からない。

その繰り返しでした。

 

ようやっと1回目を終えました。

岩を穿つように愚直に内容の理解に努める。

それだけでもだいぶ「わかる」手ごたえがつかめました。

明日はまた最初から過去問です。

 

今回は自分の限界知についてです。

 

 

勉強は必要か

 

勉強はなんでしなきゃいけないの?

勉強はする意味があるの?

 

この疑問の答えとは一体なんなのでしょうね。

 

親に「勉強しろ」と言われ続けて、学校の勉強こそが正義だと信じてやってきたのに、実社会に出てみれば就職さえままならない。

よしんば就職できたとて、給与と引き換えるにはあまりにも不釣り合いな過重労働。

心身を壊して挙句退社。

勉強てクソの足しにもならんかった。

 

そんな人もいるかもしれません。

 

勉強が必要かどうかなんて、人が決めることではないですものね、そもそも。

学校で習ういわゆる勉強がその人にとってどういった価値をもたらすかは、

「人による」としか言いようがありません。

 

ただ、私は勉強は必要派です。

 

 

私は勉強ができません

 

小学校2年生ごろから算数に遅れが出始めて、それ以来、算数の授業中はお客様状態でした。

当時の学校では、普通に教えても理解できない子供を救える方法はなかったのかもしれません。

少なくとも私の通う学校では、できない子は見えないことになっていましたので、おとなしくしてさえいれば、誰も教えない代わりに誰の迷惑にもなりませんでした。

 

遅れが取り戻せないまま中学生になり、

高校は「あの高校、アルファベットがA~Zまで書けたら受かるらしい」と巷で有名なところへ受験し、何とか合格の次第となりました。

 

算数以外それなりにできましたし、国語はかなり良かったので、現代風にいうとおそらく学習障害の類なのかもしれません。

 

そういった経緯があり、私は自分の知性のほどが定かではありません。

私は自分の知性が著しく低い可能性を否定することができません。

私に知性がなかったからといって、その事実が私の人間性や価値と相関するものではないことは充分承知しています。

 

わかる人にしかわからないでしょうけれど、こういうことって案外心もとないというか、不安をかきたてられるものです。

 

 

同じ「仕事」に対しても

 

自分の知性では右にあるモノを左に移す仕事しかできないのだろうか。

 

これが問題なのだと思います。

 

「自分に知性があることを知っているから、別にそれを毎日確かめなくても好きな生き方をしたらいい。そこはもうわかってるから」

そう思って、右にあるモノを左に移す毎日を過ごすのと、

 

「自分には知性がないから、モノを右から左に移すことしかできないのか。

それ以外のことができるほどの知性がないから、他のことがしたくなっても諦めるしかないのだろうか」

そう思って、右にあるモノを左に移す毎日を過ごすのでは、

 

同じ作業でも、苦しさが違う。

 

私はそう感じました。

 

 

自分が大勢の中で何ができるのかを知るために

 

そのために、一度は自分の限界まで勉強をすべきと私は思います。

勉強と一言で言っても、通り一遍に義務教育課程でトップを狙いましょうなんて話ではありません。

自分が得意な分野で挑戦したっていいと思います。

とにかく必死に勉強して、自分に何ができるのか、どこまでできるのか、どこまでやったら満足なのか。

それらを試さなければわからないのではないかと思うのであります。

 

自分の限界を知る

 

一度限界を知ってしまえば、後は自分の好きなスタンスを自分で決めて、そこで納得して生きることができると私は思います。

 

知性に関しては、私はまだ自分が最低限の生活ができるということくらいまでしか正直認めることができません。

 

他のことでしたら、私は納得ができることもあります。

 

例えば私は若い時分、大変な着道楽でした。

身銭を切ることがセンスを磨く一番の近道です。

おしゃれのわびさびも自分の価値観の中では納得できるまで理解したつもりであります。

結果、服は普通の形の綿の布であれば私は満足であるという結論に至りました。

もうこだわりはまったくないので、TPO毎にパターンを決めて、そのパターン通りの服を着ることにしています。

同じ服をまとめて買って来て、平日用はいつもこれ。

出勤はこれ。

フォーマルはこれ。

以上。

 

なにも考えません。

価格もメーカーも何でもいいです。

清潔で普通に着れたらそれで満足です。

それで納得しています。

自分の限界までおしゃれをしたので、今は好きなスタンスを選んで一番好きな層で生きています。

 

他にもあります。

 

私は肉体改造やビジュアルを磨く努力をしません。

ダイエットもしません。

それらをそれぞれ実際にやってみて、限界値がわかり納得できたので、今は好きなように生活をしています。

 

かつてがかっこよかったわけではありませんが、自分の見た目の「限界」がもうわかりました。

思いっきりかっこつけて、思いっきり筋トレをして、思いっきり遊んで、自分で納得をしました。

なのでもうかっこよくなくたっていいんです。

見た目がシュっとしているとかそういうことが私自身にとって必要ではなかったと知ることができました。

これで頭打ちだな、そう思ったらとても気分がよかったです。

 

 

近代は老若男女問わず、比較的ダイエットへの関心が高まっているかと思います。

私も関心を持った時期がありました。

 

自分はどこまで痩せることができるのかを試してみました。

限界が知りたかったからです。

 

結論から言うと私の限界はBMI13%でした。

2年間BMI13~14%を維持して、これ以上下がらないことを悟ったので、やめました。

もともとがマイノリティーな体形で、人間というよりもドラえもんに近いですので、私としては大奮闘でした。

自分の限界値がわかったので、とても満足しています。

また、自分のナチュラルウェイトを下回ると精神と肉体に大きな負担がかかることもわかりました。

 

世間ではBMI22%が概ね標準とされているようです。

 

しかし、実際にダイエットを体験してみて感じたことは、世間が22%でも自分が生まれながらに持っているポテンシャルが30%だとしたらあるがままに生きるのが一番幸せなのではないかという点です。

 

私の場合は自然の状態でも、BMIでいったらほぼほぼ世間の標準値と遠くはないです。

ただ体形がマイノリティーなので、BMIに関わらず、あまり人らしいビジュアルではないですけれどもねw。

 

私自身がダイエットや肉体改造をすることにあまりメリットを感じない性格だということも、やってみてわかりました。

 

結局、自分の限界値を一度知れば、後はどこの値で生きることを選んでも自分で納得できるということです。

 

 

私は知性において、自分に何ができるのかをほとんど知りません。

 

「アルファベットがA~Zまで言えたら合格する」と噂の学校に3年間通ってみました。実際はアルファベットをA~Zまで暗記するよりは複雑な授業もありました。

 

しかし残念ながらその授業は、私に自信を与えてはくれませんでした。

 

アルファベットよりも複雑なことを習いましたけれども、

地元で就職をしたことろで、周囲からは「アルファベット言えたら受かる高校ね」と言われるだけでしたから。

 

それをウェルカムジョークくらいに思える反面、本当にこれが私の知能なのだろうか、

それに関して私は自分の限界を試す努力をしたのだろうか?

 

最後までその疑問を拭い去ることはできませんでした。

 

 

本気で勉強がしたい

 

人生も半ばを過ぎて、私がやり残したことがあるとするならばこれしかありませんでした。

今までやらなかったことで、やっておけばよかったこと。

 

ちょうど体調もいいですし、お金も必要ですし、勉強もしたいですし、時間もあります。

いろいろ条件も揃っているので、宅建士の勉強、を本気で取り組んでいます。

 

 

最後に

 

下世話な話になりますが、もし私に知性があったら私はそれを自慢したくなるでしょう。

今の今まで自分には知性がないという証拠しか持ち合わせていませんでしたから。

 

現に今だって、ただ勉強中というだけで、自分が偉くなったような気分になって困っています。

これほど自己嫌悪感を刺激することもそうないです。

 

そんな下品な高揚感が一日でも早く消え去ることを祈っています。

 

最後までおつきあいいただきましてありがとうございます。

ではまた。